ビル・へイリーはもともとカントリ畑の出身で、ビート感強く躍動感溢れる音楽を求めていた。
彼は1952年エセックス・レコードで「Crazy Man Crazy」を初ヒットさせた。
1955年映画「暴力教室」の主題歌「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が若者に歓迎され、全米No1の大ヒットになった。この1曲でポップス界はロックン・ロールへと動き出した。
この曲はロックン・ロールへ出発点の黎明期に当たる重要な作品だと思うし、ポップ史上永遠不滅の
作品だ。人類が生存する限り語り継がれていく、ロックン・ロールの名曲だ。ポップス・ファンはこのことを忘れてならないと思う。
ロックン・ロールのルーツを遡ると、ジャッキー・プレンストンの「ロケット・88」がロックン・ロール最初の曲だとされているが聴いた限り、ヘイリーのほうがストレートで軽くリズム感があるし、ビート、ジャンプ溢れる作品になっている。
オリジナルはソニー・ディーが1954年に発表しているが、こちらの曲はいまいちノリがなく、少しジャズっぽい感がする。
まぁ、この曲でビル・ヘイリーと彼のコメッツはエルヴィスが現れるまで全米No1のロックン・ロール・スターとなった訳だ。彼らグループの活動期間は短く1955年から1957年までで、何しろ、ロック・アラウンド・・が偉大すぎて後のこの曲と肩を並べるヒット曲はない。
これだけの大ヒット放ったにもかかわらず彼らはエルヴィスのような大スター扱いはされなかった。ちょっと、可哀想だね。
彼らグループはアメリカからイギリスへと活動の場所を変えた。なにしろ、イギリスの歓迎振りは、
エルヴィスをしのぐ人気者だった。
やがて、ライブを見たファンは現実のヘイリーを見てガッカリすることになる。
それは、ヘアースタイルが横山ノック、体形も親父みたいでエルヴィスみたいに、ハンサムでもない彼にガッカリしたのだ。でも、今でもイギリスでは人気がある。


世界35カ国140以上のバージョンが発表されていると・・
彼の音楽はダンス・ミュージックに終始したようの思われる。だから、エルヴィスが登場して、時代の流れについていけなかったことが、活動の場をアメリカからイギリスへと求めたのかもしれない。
尚、Rock And RollはクリーブランドのDJアラン・フリードが名付け親。
彼は1952年黒人専門局ラジオから「ムーンドッグ・ロックン・ロール・ハウス・パーティ」を流していた。
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お返しに私も1番にコメントさせていただきます。
この曲は私でもよ~く知っています。
とっても軽快で楽しい曲ですよね。
ず~っと下の黛ジュン。
「ブラック・ルーム」は知りませんでしたが「天使の誘惑」は時々カラオケで歌うんですよ^^